ボン教の歴史と教え

「General Introduction to the History and Doctrines of Bon」 サムテン・G・カルメイ著 より日本語部分訳

著者のサムテン・G・カルメイ氏のご好意により掲載させていただいています。

 ボン教の伝承によると、ボン教発生の起源地はオルモ・ルンリン(Ol mo lung ring)という所、つまりタジク(sTag gzig)あたりであると推定されている。この場合のタジクとは、学者たちによってペルシャ(Persia)に同定されている所である。オルモ・ルンリンというチベット語に何か意味があるのか否かは、容易に答えられない問題である。従来の解釈に従えば、「オル」-いまだ生まれざる、「モ」-衰滅せざる、「ルン」-シェンラプ(gShen rab)のことば、「リン」-シェンラプの永遠の哀れみ、という意味になる。この解釈は一読するだけで、やや時代遅れの、しかも根拠の希薄なものとわかるであろう。文字通りの意味を問えば、明らかに「オルモという長い渓谷」と解せよう。チベットにもプンモ・ルンリン(Bon mo lung ring)などのような類似の地名はあるが、タジクのオルモ・ルンリンとはなんら関係がないようである。とはいえ、類似の地名があるために、オルモ・ルンリンの所在地をつきとめにくくなっているとも言えるのである。

 

 オルモ・ルンリンとはこの世に実在する地なのであろうか、それとも極楽(スカーヴァティー-Sukhavati)のような想像上の聖なる国なのであろうか。ボン教の教えでは、これら双方の問いに対して「然り」と答えている。オルモ・ルンリンはこの世に存在する、なぜならばその地は西の方、タジクに存在するからである。しかも、この世が最終的に焼き尽くされる時、その地は空高く飛揚し、天界にある神聖な国スィパ・イェサン(Srid pa ye sangs)(註2)と合致するので、不滅の地ともなるのである。滅することのない世界でありながら、現し世でもあるという観念は、ボン教に特有のものではない。仏教でも同様にブッダガヤ=ヴァジュラーサナ(Vajrasana)は、この世が消滅する時に天空に昇るのである。ともあれボン教徒たちにとって、オルモ・ルンリンがこの世に実在しようがしまいが、そんなことはさほど問題ではない。だから1959年まではオルモ・ルンリンへ巡礼に出かけていたものであるが、行った人は誰も戻って来なかったらしい。ソビエト国境で消息を絶ったものと想像できると言う人もいる。

 

 ここでオルモ・ルンリンという国に関する伝承を取り上げて、ボン教徒がその国の存在と現世との関係をどのように把握していたかを論証するための一助としよう。伝承ではまず、オルモ・ルンリンが現実世界の三分の一を占めており、西方のどこかに位置すると言っている。その形状については、八本の輻を持つ車輪状の天空に相応する、八弁の花として描き出されている。国にはユントゥン・グプツェー山(g-Yung drung dgu butsege)があたりを制してそびえている。この山の名を直訳すると「九卍層」であるが、卍と数字の九はどちらもボン教ではきわめて重要な意味を持つ。卍は仏教の金剛(vajra)に相当し、不滅を象徴するシンボルである。また、ユントゥンという語には、助動詞のドゥ(du)をつけて、「常に」、もしくは「永遠に」という意味の副詞ユントゥン・トゥの形で、古文書中にたびたび用いられている。さらに、ボン教の別称トゥルンガク・ユントゥン・ボン(phrul ngag gyung drung bon「魔法のことば、永遠のボン教」)の中にもユントゥンという語がある。しかしながら、ボンの別称としてユントゥンがいつから使われだしたものか、正確な年代は断定できないにしても、10世紀以前に使われていたとは考えられない。さて、ボン教における数字の九は、とりわけ地界と天界および教義に関連している。地界は地殻から地底へむかって九層(サ・リムパ・グ sa rim pa dgu)をなすと信じられている。天界は最初に生じた時は九層(ナム・リムパ・グ gnam rim pa dgu)であったが、後に13層に拡がった。ちなみに数字の13は、九と並んでボン教の吉相を表す数である。教義もやはり九種の方便(テクパ・リムパ・グ theg pa rim pa dgu)に分類されている。またその山頂は奇しくも水晶巖で形成されているのであるが、もとをたどれば、それはおそらく雪を頂いている様子、もしくは氷でおおわれている様子を表現したものであろう。年を経るにしたがって、この水晶巖に特別な重きが置かれたのであろう。この山のふもとから四方に河川が流れ出ている。その河川とは、獅子の形をした岩窟を発して(センゲ・カパ Seng ge kha babs)東方へ流れるナラ河(Nara)、馬型の岩窟から(タチョー・カパ rTa mchog kha babs)北方へ流れるパクシュ河(Pakshu)、孔雀形の岩窟から(マチャ・カパ rMa bya kha babs)西方へ流れるキムシャン河(Kyim shang)、象の形をした岩窟から(ランチェン・カパ Glang chen kha babs)南方へ流れるシンドゥ河(Sindhu)である。ユントゥン・グプツー山を中心に、何百もの寺や都市および庭園がよりそっているが、注目に値する主要地は、八ヶ所だけである。山の東にはシャムポ・ラツェ寺(Sham po lha rtse)、南にはシェンラプ生誕のパルポ・ソゲー宮(Bar po so brgyad)、西にはシェンラプの妻ヒューサ・ゲーシェーマ(Hos bzargyai bzhad ma)が三人の子供トプ(gTo bu)、チェープ(dPyad bu)、ネウチェン(Neu chen)をもうけて住んだティムン・ゲーシェー宮(Khri smon rgyal bzhad)、北にはシェンラプのもう一人の妻ポサ・タンモ(dPo bza thang mo)がルンデン(Lung dren)、ギュデーン(rGyud dren)、ネウチュン(Neu chrng)の三子をもうけて住んだコンマ・ネウチュン宮(Khong ma neu chung)がある。ユントゥン・グプツェー山と以上の四大主要地は、オルモ・ルンリンの内部地域(ナンリン nang gling)を占めている。この地域の後に、12都市からなる中間地域(パルリン bar gling)が続くが、そのうちの四大都市は、東西南北の四方位に位置している。西にある都市はギャラー・ウーマ(rGya lag od ma)と呼ばれ、コンツェ・トゥルキ・ゲーボ(Kong tse phrul gyi po)の在所である。この重要人物に関しては後述する。中間地域の後には外部地域(タリン mtha gling)が広がている。以上の内部、中間、外部の三地域は、河川や湖によって区切られていると言われ、オルモ・ルンリン全土はムキュー・デーウェー・ギャツォ(Mu khyud bdal bai rgya mstho「周囲に広がる海原」)にとり囲まれている。ほかでもないこの海、すなわちオルモ・ルンリンの西方海上に、コンツェ・トゥルキ・ゲーボが、神秘的な寺を建立したのであった。伝承では、この王は中国人でシェンラプ・ミオゥの信者だったと伝えられている。シェンラプ・ミオゥの主だった弟子たちが、シェンラプの教えをことごとく収集して書き留め、その記録を預けたのが、まさにこの寺であったから、とりわけここが重要地となったのである。さて、オルモ・ルンリンの環海もまた、ウェーソ・ガンキ・ラワ(dBal so gang kyi ra ba「峨々たる雪嶺の周壁」)という雪峰にとり囲まれている。この峰の名はチベット人が自分の国を言い表すことばとしてたびたび用いるカンリー・ラウェー・コルウェー・シンカム(Gangs rii ra bas bskor bai zhing khams「雪峰の壁にとり囲まれた国」)と類似している。

 

 オルモ・ルンリンへ行くには「矢道」(ダラム mda lam)を通らねばならないということである。この道はシェンラプがチベットを訪れる際に、環状雪壁の内側から矢を射て創ったものだ。矢で山壁をうがち、大きなトンネルを作った。だが、矢の突き立った所に関しては言及されていないので、このトンネルを通り抜けることは、容易ではない。途々、幾多の峡谷を越え、数多の野獣に出くわし、さらに暗闇に包囲されたまま、9日間かけてようやくオルモ・ルンリンへたどり着くのである。信者たちには、たとえば中央チベットからそこまでの道程に関する情報もないし、パンチェン・ラマ(Pan chen Lama)三世ペーデン・イェシェ(dPal lden Ye shes 1737-?)の「シャンバラ旅行記」(シァンバレー・ラムイー Shambha lai lam yig)のような旅行案内書の類とてないのである。

 

 本稿では、11世紀以降のボン教僧侶による多数の著作物のうち、きわめて詳細な記述の一部を取り扱うにとどめる。とはいえ、この現実ばなれした国の所在を考察するのに必要な基本資料はおさえてある。科学というものは熱狂的な信者の心にさえ多大の影響を及ぼしている。さもなければ彼らが預言者たちのことばに疑問をさしはさむこともなかったであろう。ボン教僧とて例外ではない。彼らの当面の問題はまず、経典に従ってオルモ・ルンリンの位置を地理的に同定することである。オルモ・ルンリンが地上界にも天上界にも存在するために、問題はますます解き難くなっている。ここで問われるべきことは、オルモ・ルンリンがシャンシュンZhang zhung)に実在していたにもかかわらず、「タジク」にあると断定され始めたのは何世紀なのか、また何故にこのようなことが生じたのか、という問題である。これまでのところ、発見された写本や碑文からは、10世紀以前にオルモ・ルンリンという名称や観念が存在したという実際的な証拠はあがっていない。その一方で、チベットではいまだに、考古学的な発掘や、系統的な写本収集に手がつけられていない現状なのである。ランダルマ王(Glang Darma)の暗殺に続くチベット王国の壊滅的な崩壊から10世紀初頭に至る期間は、チベット史上もっとも暗い時代であり、これほど陰鬱きわまりない時代は他にはないであろう。この時代、チベットは余りにも宗教的政治的に混乱して、現存する痕跡はほとんど無い。しかしながら10世紀の初めに再び、仏教がチベットの国土を掌握し始めると、熱に浮かされたような勢いで、インドから仏教の新しい教えが摂取され、翻訳する作業が進められた。ボン教僧たちもこうした事態に刺激されて、おそらく、自らの見解を再検討する動きを起こしたのであろう。そこで自分たちの宗教とて、チベットのありふれた地に発生したはずがないと考えるようになった。そうして、七世紀以来チベット人が敬服してやまない文明の地タジク(ペルシア)に、シェンラプ生誕の地すなわちオルモ・ルンリンがあると解釈したのである。

 

 ともかく、経典中に記述されたオルモ・ルンリンの山河に関する事柄を、近代地理学の知識に照らしてみると、その起点から幾筋かの川を発する雪嶺ティセ(Tise:別名カイラス Kailas)と、ユントゥン・グプツェー山が完全に一致すると判断できるであろう。その第一の理由は、ティセが、ボン教発生の地と伝えられているシャンシュンの最重要地であったという点である。まさにその地に、ボン教もしくはボン教と同様の信仰が生じたと認めてもよさそうである。第二の理由は、ボン教の重要なテキストがシャンシュンの言語とチベット語で書かれている点である。それに、シャンシュン語をボン教僧の創り出した一種の人工言語とみなす学者たちもいるが、現在のラダク方言(Ladhaki)とクナワル方言(Kunawari)-両者とも旧西チベット地域で使われていることば-の中に多数のシャンシュン語が現存することも注目に値する。(註3)

 

 オルモ・ルンリンがティセ山一帯に同定されることは、14世紀の重要文献「ツァギュー・ニセル・トゥンメ」(rTsa rgyud nyi zer sgron me)で裏づけられている。同文献中、東に中国、南にインド、西にオギェン(O rgyan)、北にリ(Li:別名コータン Khotan)ありと明示されているが(註4)、オルモ・ルンリンそのものの記載に際しては明らかに混乱がある。というもの、コンツェ・トゥルキー・ゲーボの生国ギャラー・ウーマリンが西に位置すると記載してあるが、これは孔子をモデルにした人物であるから、その生国を西方にとるのは矛盾しているのである。(註5)

 

 ところで、前述の見解に真向から対立する意見もあり、たとえば「ゼルミク」(gZer mig)のようなテキストには、ティセ地方はオルモ・ルンリンにあらずと記されている。伝承では、この意見を何とかくつがえそうと、ティセ一帯がシャンシュンのオルモ・ルンリンに「相当している」とのみ考えているのである。

 

 もちろん、信仰者の立場からすると、そう簡単に事実を受け入れたくないのも無理はない。ティセ一帯はボン教の聖地とみなされてはいるが、誰でも訪れることができて、あまりにもありふれた所なので、シェンラプの生誕地とはされていない。これほど現実的すぎると、霊的レベルでのみ存在するような神秘的で未知なる国を好む信仰者には不満なのである。

 

 ここで少し、最近Tibetan Review(註6)に掲載された、オルモ・ルンリンをめぐる論文に注目するのも有意義であろう。ボン教学者テンジン・ナムダク(Tenzin Namdak)が1964年に、チベット語で相当語句をつけたシャンシュン語の語彙集とともに、ボン教の年代記に関する小論文を発表した。(註7)彼はこの論文に、自らのテキスト解釈に基づいて描出したオルモ・ルンリンの伝承図を入れている。この地図はまずE・ヘテニ(E.Hetenyi)によって、後にソビエト連邦のB・クズネツォフ(B.Koznetsov)によって取り上げられ、古代のチベット地図と評されている。彼らによると、この概略的な地図は、紀元前のキュロス大帝国統治下における中東とペルシアの地図に幾分類似している。そこで、ある種の地名および宮殿名はペルシア語起源の語を転写したものであり、それらのうちのひとつは地図のかなた西方にあるエルサレムに相当することばだと、彼らは考えている。こうした見解は確かにボン教の伝承と合致しており、またこの方面の研究はきわめて重要であろうから、私はその続行を期待している。

 

 シェンラプ・ミオゥは、ボン教の開祖である。彼は仏教における釈迦牟尼(Sakyamuni)と同等の地位を占めるが、釈尊とは次の点で異なっている。つまり、史実性や生没年、人種的な素姓、諸々の行跡、直伝もしくは口承として信じられている莫大な書物の信憑性などを確証する資料がそろっていない点である。書物に関しては、ボン教徒の言によると、仏教経典の編纂方法と同じやり方で、シェンラプの死後集められて記録されたものである。彼の生涯については、もっぱら、事実と伝説をないまぜにしたやや新しい時代の資料によって知り得るのみだ。10世紀以前の文献では、シェンラプのチベット来訪や、南チベットのコンポ(Kong po)に住んでいたと言われる悪魔キャッパ・ラーリン(Kyab pa lag ling)との交渉などの行蹟面に、光を当てるほどのものが、そろっていないのである。

 

 ここで、ボン教の伝承をもとに、シェンラプを概説しよう。天上の神聖なる国ティーパ・イェサンにタクパ(Dag pa)、セルワ(gSal ba)、シェーパ(Shes pa)の三兄弟がいた。三人とも、ボン教の賢人ブムティ・ローキ・チェチェン師(Bum khri glog gi lce can)の下で修学していた。学をまっとうした後、そろってシェンラ・ウーカル神(gShen lha od dkar)に詣で、生けるものたちの苦悩に対して自分たちが何をなし得るかを問うた。神の答えは、三人めいめいが過去、現在、未来の三世に導師となって働くであろうというものであった。長男のタクパが過去世で任務を完遂すると、次男セルワが現世の導師、シェンラプとなった。そして三男のシェーパは、来るべき後世でおのが務めに従事すべく待機中である。シェンラ・ウーカル神はシェンラプに対して、監督指導を行うと約束し、またティーパ・サンポ・ブムティ神は、この世を秩序正しく維持して彼を助ける旨承諾した。(註8)

ボン教の歴史と教え byサムテン・G・カルメイ氏
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